AIと著作権(7)――AI時代に著作権は何を守るべきなのか
ここまで6回にわたって、AIと著作権について考えてきた。既存作品をそのまま再現する場合、AIが著作物を学習する場合、作風を模倣する場合、AIによってクリエイターの仕事が減る場合、そしてAIを使って作った作品そのものに著作権があるのか。それぞれを分けてみると、最初に考えていた以上に、「AIと著作権」という一つの言葉の中に、性質の違う問題が大量に押し込められていることが分かる。
そして私は、この問題について「AIは著作物を盗んでいるから禁止すべきだ」という立場にも、「AIはただ学習しているだけなのだから何をしても構わない」という立場にも賛成できない。
著作権は守るべきである。しかし、何を守るための権利なのかを明確にしなければならない。
私がこの連載を通して考えてきたことを一言でまとめるなら、具体的に作られた作品は守る。しかし、学習、技法、作風、能力、職業までを著作権によって独占させるべきではない、ということになる。
他人の作品をそのまま使うなら、AIでも著作権侵害である
まず、ここにはあまり迷う必要はないと思う。
他人の絵をAIに入力して、一部だけ変更して自分の作品として公開する。他人の小説を読み込ませ、名前や語尾だけ変えて自作として発表する。既存の音楽をほとんどそのまま生成させる。公開されているプログラムコードを再現させ、権利関係を無視して利用する。
AIを使ったからといって、こうした行為が突然許されるわけではない。
日本でも、AI生成物による著作権侵害については、基本的には従来と同じく、既存著作物との類似性や依拠性などから判断するという整理が続いている。文化庁の2026年版著作権テキストでも、AIについて「開発・学習段階」と「生成・利用段階」を分け、生成されたものを利用する際には既存著作物との関係を確認する必要があるという基本線が維持されている。
つまり、AIは著作権侵害を無効にする魔法の道具ではない。
ここはむしろ、AI時代だからこそ厳しく考える必要があるかもしれない。人間が一枚ずつトレースしていた時代とは違い、AIを使えば短時間で大量の類似作品を生成することも可能になる。著作権を守る意味がなくなるのではなく、具体的な作品を守る必要性はむしろ高くなる。
しかし、学習することと作品を奪うことは同じではない
問題が難しくなるのは、そこから先である。
公開された小説を読んで文章の書き方を学ぶ。絵を見て構図や色の使い方を覚える。音楽を聴いて和声を学ぶ。プログラムを読んで設計方法を学ぶ。これは人間が昔から行ってきたことである。
AIの場合、その規模も速度も人間とはまったく違う。大量の作品を機械的に取得し、コンピューターで処理するため、技術的には複製が発生する。そのため「人間も学習するのだからAIも同じだ」という一言だけで済ませることはできない。
それでも、作品そのものを複製して利用することと、作品から一般的な規則性や知識を学習することは分けるべきだと思う。
日本の著作権法では、著作権法第30条の4によって、著作物に表現された思想や感情を人が享受することを目的としない情報解析などについて、一定の場合に著作権者の許諾なく利用できる仕組みが設けられている。文化庁もAI学習をこの枠組みの中で整理している一方、著作権者の利益を不当に害する場合や、既存作品の創作的表現を出力させることを目的とするような利用については別に考える必要があるとしている。
私は、この考え方そのものには合理性があると思っている。
文章の構造、絵の描き方、音楽の法則、プログラムの一般的な方法までを、最初に作品を作った人が永久に独占できるとすれば、新しい創作そのものが難しくなる。文化は、過去の作品から学び、それを変え、組み合わせ、そこから別のものを作ることで発展してきた。
AIだけを、その循環から完全に排除することが本当に可能なのか。そして、それをするべきなのかという問題は残る。
ただし、「学習だから自由」でもない
一方で、「AI学習だから全部自由である」という考えにも賛成できない。
一般公開されたウェブサイトから作品を取得することと、パスワードで保護された場所へ侵入して取得することは同じではない。有料で提供されているデータベースを、その商品価値を失わせるような形で丸ごと取得することも別の問題である。明らかな海賊版サイトと知りながら作品を大量に収集することも、作者自身が正規に公開した作品を利用する場合と同じに扱うべきではない。
文化庁も現在、AI技術の発展と知的財産権の適切な保護を両立させるため、法律だけでなく、技術、契約などを組み合わせる必要があるとしている。また、AI学習のためのライセンスや、海賊版サイトに関する関係者間の情報共有も政策課題として挙げている。
ここには、著作権そのものとは別に、取得方法の適法性、契約、アクセス制御、AI開発企業の透明性といった問題がある。
学習を広く認めることと、データの入手方法を問わないことは同じではない。

作風は守れない。しかし作品は守れる
作風についても同じような境界線がある。
長年かけて身につけた文章のリズム、絵の線や色彩、音楽の特徴などは、本人にとって極めて重要なものである。それをAIが短時間で模倣すれば、「自分のものを盗まれた」と感じるのは理解できる。
しかし、作風そのものを著作権で独占することには大きな問題がある。
ある作家の影響を受けた文章を書くこと、ある画家を研究して似た傾向の絵を描くこと、ある音楽家に影響を受けた曲を書くことは、AIが登場する以前から行われてきた。それらをすべて最初の作者が禁止できるようになれば、人間同士の創作にも大きな制限がかかる。
文化庁の整理でも、「作風」というアイデアのレベルで共通するだけの場合と、既存作品の創作的表現まで直接感じ取れる場合は区別されている。前者は直ちに著作権侵害とはならず、後者については侵害となる可能性があるという考え方である。
私は、この線も維持するべきだと思う。
作風は誰か一人の所有物にはしない。しかし、その作風で実際に作られた具体的な作品は守る。
この二つは矛盾しない。
著作権で守られなくても、別の権利で守られるものもある
ここで注意しなければならないのは、「著作権で守られない」ことと「自由に利用してよい」ことも同じではないという点である。
この連載を書いている途中の2026年8月7日、法務省は、肖像や声などの無断利用に関する民事責任について報告書を公表した。その中で、人の声は人物を識別する情報であるとともに、人格を象徴するものとして人格的利益と結び付くという考え方が示されている。AIによる音声クローンなどについても、著作権とは別に、人格権やパブリシティー権などの観点から問題になり得る。
これは、AI時代の権利を考えるうえで象徴的だと思う。
声そのものは通常、著作物ではない。しかし、だから他人の声を本人そっくりに生成し、好き勝手に発言させてもよいということにはならない。
作風、声、肖像、氏名、ブランド、信用など、著作権だけでは説明できない問題はこれから増えていくだろう。
だから、「著作権侵害ではない」という結論を、「合法だから何をしてもいい」と読み替えるべきではない。
仕事が失われる問題を著作権に押し込めない
そして、この連載で私が最も分けたかったのが、著作権と仕事の問題である。
AIによって文章を書く仕事が減るかもしれない。イラストの仕事が減るかもしれない。翻訳、音楽、映像、プログラミングなども大きく変わる可能性がある。
これは非常に大きな問題である。
しかし、AIが人間の仕事を代替したというだけで、それが著作権侵害になるわけではない。
仮に、AIが利用するすべての学習データについて正式な許諾が取られ、著作権切れの作品や自社保有データなどだけを利用し、既存作品を一切再現しないモデルが作られたとする。それでも、そのAIが人間より速く、安く、十分な品質の文章や画像を作れるのであれば、人間への仕事の発注は減る可能性がある。
そこで起きているのは著作権侵害ではなく、技術による仕事の代替である。
私は、自分でも文章を書く。AIが将来、人間より優れた小説を書き、人間に文章を依頼する仕事が大きく減る可能性も否定できない。それでも、「自分の仕事がなくなるからAIは文章を学習してはいけない」というところまで著作権を拡張することには賛成できない。
工業、印刷、運輸、写真、設計など、多くの職業が新しい技術によって変化してきた。著作物を作る職業だけが、著作権という制度を使って技術による代替を拒否できるというのは不自然である。
仕事が失われるなら、それは雇用、所得分配、再教育、社会保障、あるいはAIによって生まれる利益をどう社会へ還元するかという問題として考えるべきだと思う。
AIで作ったものも、人間が創作した部分は守る
反対に、AIを使った新しい創作を著作権の外へ追い出す必要もない。
生成ボタンを一度押し、AIがほとんどすべての表現を自律的に決定したのであれば、人間による著作物とは認められない可能性がある。一方、人間が創作意図を持ち、構成を決め、何度も生成と選択を繰り返し、表現を修正し、自分でも加筆しながら作品を完成させたのであれば、人間による創作的寄与が認められる可能性がある。
文化庁の2026年版著作権テキストでも、AI生成物については、人間の創作意図と創作的寄与を踏まえて著作物性を判断するという考え方が示されている。AIを利用したという事実だけで著作物性が否定されるわけではない。
私は、この考え方も自然だと思う。
写真家がカメラを使う。音楽家がシンセサイザーを使う。デザイナーがPhotoshopを使う。それと同じように、AIが創作者の道具になることもある。
問うべきなのは、「AIを使ったか」ではない。
その作品の中で、人間が何を創作したのか。
ここを見るべきだと思う。
著作権は「変化しない権利」ではない
AIと著作権について議論していると、ときどき著作権が「現在の創作環境をそのまま維持するための権利」であるかのように感じることがある。
しかし、私はそうではないと思っている。
著作権は、作者が作った作品を一定期間守る制度である。その作品を他人がそのままコピーして販売したり、自分のものとして利用したりすることを防ぐ。しかし、作者が持っている技能を他人が学ばない権利でもなければ、同じ分野に新しい競争相手が現れない権利でもない。そして、自分の職業が新しい技術によって変化しないことを保証する権利でもない。
ここを広げすぎれば、著作権は文化を守る制度ではなく、既存の産業構造を固定する制度になってしまう。
一方、著作権を軽視して、作品を自由にコピーしてよい社会にすれば、創作する人間が作品を公開する意味そのものが失われてしまう。
必要なのは、その間に線を引くことである。
AI時代の著作権について、私が考える境界線
ここまでの連載をまとめると、私はAI時代の著作権について、次のような考え方が妥当ではないかと思っている。
- 既存作品の具体的な創作的表現は、従来どおり守る。
- AIを使って既存作品を複製・翻案したからといって免責しない。
- 一般的なAI学習や情報解析は広く認める。
- ただし、違法な取得、アクセス制限の回避、海賊版の意図的利用などは別の問題として扱う。
- 特定作品の創作的表現を再現することを目的とした学習は、一般的な学習とは区別する。
- 作風、技法、アイデア、一般的な知識まで著作権で独占させない。
- 作家名、声、肖像などについては、著作権以外の人格的・経済的利益も考える。
- AIによって職業が代替される問題は、著作権とは分けて議論する。
- AIを使った創作についても、人間が創作した部分は著作権で守る。
- AI開発企業には、データ取得や出力について相応の透明性と責任を求める。
この線なら、著作者の作品を守りながら、AIという技術そのものを止めずに済む。
もちろん、実際の境界線はこれほど簡単ではない。どこまで似れば作品の再現になるのか。どこまで人間が関与すればAI生成物が著作物になるのか。どのような学習が著作権者の利益を不当に害するのか。これらについては今後の裁判例や制度変更によって、少しずつ線が引かれていくことになるだろう。文化庁自身も、AIと著作権に関する整理について、判例や技術の進展、諸外国の動向などを踏まえながら継続して検討していく位置付けとしている。
AIは創作を終わらせるのか、それとも広げるのか
最後に、著作権とは少し離れたところまで考えてみたい。
生成AIによって、これまで絵を描けなかった人が画像を作れるようになった。音楽を作れなかった人が曲を作れるようになった。プログラムを書けなかった人がソフトウェアを作り、文章を書くことが苦手だった人が自分の考えを文章にできるようになった。
一方で、それを職業としてきた人にとっては、強力な競争相手が突然現れたことになる。
どちらも事実である。
AIは創作者を助ける道具でもあり、創作者の仕事を奪う技術にもなり得る。新しい作品を生み出す技術であると同時に、著作権侵害を大量に行う道具にもなり得る。
だから、「AIは善か悪か」という問いにはあまり意味がない。
印刷機も写真も録音機もコンピューターもインターネットも、それ以前の仕事や権利のあり方を変えてきた。AIもおそらく同じである。ただ、その変化の速度と規模が、これまでとは桁違いに大きい。
そして、その変化を止めることよりも、新しい技術の中で何を守り、何を自由にし、どこに責任を負わせるのかを決めることの方が重要なのだと思う。
著作権は必要である。
しかし、著作権は過去の仕事をそのまま保存するための権利ではない。
守るべきなのは、人間が作った具体的な表現である。その一方で、そこから学び、新しいものを作る自由も残さなければならない。
AI時代になっても、その原則自体はそれほど変わらないのではないかと思う。
変わったのは、これまで人間だけが行っていた「学び、組み合わせ、作る」という行為を、機械も行えるようになったことである。
その新しい存在を、これまでの著作権という仕組みの中でどこまで受け入れ、どこから制限するのか。
AIと著作権をめぐる本当の議論は、おそらくまだ始まったばかりである。