AIと著作権(4)――作風は誰のものか
前回は、AIが著作物を学習すること自体は著作権侵害なのかを考えた。今回は、その先にある、もっと感情的で、そして境界線の分かりにくい問題を扱いたい。「作風は誰のものなのか」という問題である。
画像生成AIであれば、「○○風の絵を描いて」と入力することができる。文章生成AIでも、「○○のような文体で」と指示することは技術的には可能である。音楽でも、特定の時代やジャンル、作曲家、演奏家を思わせるものを生成できる。さらに、特定の作家の作品だけを集めて追加学習を行えば、その作家らしい特徴をかなり強く反映した生成AIを作ることもできる。
ここで「それは作風の盗用ではないか」という反発が起きる。
その感覚は分からなくもない。作風は、作者が何年、場合によっては何十年もかけて身につけたものである。色彩、線、文章のリズム、構図、言葉の選び方、音の使い方などを試行錯誤した結果として、その人らしさが生まれる。それをAIが短時間で模倣し、本人よりはるかに大量の作品を作り始めれば、「自分が作り上げたものを奪われた」と感じるのは自然だろう。
しかし、ここでも感情と著作権法は必ずしも一致しない。現在の著作権法が守っているのは、原則として具体的に表現された作品であって、作風そのものではない。

作風そのものには、原則として著作権はない
これはAIが登場したから突然生まれた考え方ではない。著作権法は昔から、アイデアと表現を分けてきた。
たとえば、ある作家が「孤独な男が知らない町へやって来る」という小説を書いたとしても、その発想そのものを独占することはできない。別の作家が同じ設定でまったく別の小説を書くことはできる。絵でも、強いコントラストを使うこと、極端に長い手足を描くこと、特定の色彩を好むことといった一般的な特徴まで、一人の作者が独占できるわけではない。
文化庁がまとめた「AIと著作権に関する考え方について」でも、生成AIによって既存クリエイターの「作風」など、著作権法上の権利の対象とならない部分が類似した生成物が大量に作られることへの懸念を認識したうえで、作風がアイデアにとどまる場合には、作風が共通すること自体は著作権侵害にならないと整理している。
なぜなら、作風まで著作権で独占できることにすれば、創作そのものが非常に難しくなるからである。文化庁も、アイデアそのものを著作権で保護すれば、同じアイデアを使った表現活動が制限され、表現の自由や文化の発展を妨げる可能性があるという著作権法の基本的な考え方を示している。
そもそも文化は、模倣と影響の積み重ねでできている。作家は過去の小説を読み、画家は過去の絵を見る。作曲家は大量の音楽を聴く。プログラマーは他人のコードや設計思想を学ぶ。まったく誰の影響も受けずに創作を始める人など、ほとんどいない。
そう考えれば、「自分の作品そのものをコピーするな」という権利と、「自分の作風から誰も学ぶな」という権利は、やはり別のものである。
では「○○風」とAIに頼むのは著作権侵害なのか
では、生成AIに特定の作家の名前を入れ、「○○風の絵を作ってほしい」「○○のような文章を書いてほしい」と頼んだ場合はどうなるのか。
これも、その指示だけで直ちに著作権侵害になるとは考えにくい。
たとえば、人間の画家に「印象派のような色使いで」「昔のアメリカンコミックのような雰囲気で」「ゴシック小説のような文章で」と依頼したとしても、それだけで誰かの著作権を侵害するわけではない。同様に、AIへの指示に特定の作家名が含まれたからといって、その入力した文字列だけで既存作品を複製したことにはならない。
問題は、その結果として何が生成されたかである。
ある作家を思わせる雰囲気、色彩、線の傾向だけが似ているのであれば、著作権の問題にならない可能性が高い。しかし、その作家の特定の作品に存在する人物、構図、背景、装飾、特徴的な形状などが再現され、その作品の創作的表現を直接感じ取れるのであれば、話は変わる。
文化庁も、生成物が単に作風というアイデアのレベルで共通しているだけではなく、元となった作品群の創作的表現を直接感じ取れる場合には、その生成や利用が著作権侵害となり得るとしている。
つまり、「○○風」という言葉そのものに禁止線を引くよりも、最終的に元作品の具体的な表現を再現しているかを見る方が、著作権法としては自然である。
一人の作家だけを学習したLoRAはどう考えるのか
ここで問題がさらに難しくなるのが、LoRAなどによる追加学習である。
大規模な生成AIは、通常、膨大な量の文章や画像などから一般的な特徴を学習する。それに対してLoRAなどを利用すると、既存のモデルに比較的少量のデータを追加して、特定の人物、物体、表現傾向などを強く反映させることができる。
たとえば、一人のイラストレーターの作品を数十枚集め、その作家の絵柄を出せるLoRAを作ることが考えられる。小説でも、特定の作者の文章だけを集めて追加学習し、その作者に近い文章を出力しやすくすることは技術的には可能である。
これについて、「作風には著作権がないのだから、当然自由である」と言い切ってしまうのは少し危険である。
文化庁は、特定のクリエイターの少量の著作物のみを使った追加学習について、その作品群に共通する創作的表現の全部または一部をAIから出力させることが目的だと評価される場合には、著作権法第30条の4の「非享受目的」の利用とはいえず、著作権者の許諾が必要になる可能性があるとしている。LoRAについても、こうした追加学習の例として明示されている。
ここは、第3回で扱った一般的なAI学習との重要な違いである。
何億、何十億という作品から「絵とはどういうものか」「文章とはどのように構成されるか」を学ぶことと、一人の作家の作品だけを集め、「この人と同じものを出せるようにする」ことは、目的が違う。
もちろん、一人の作家だけを学習したから必ず違法になるわけではない。最終的に学んでいるものが著作権では保護されない一般的な作風やアイデアにとどまり、個々の作品の創作的表現を再現することを目的としていない場合もあり得る。文化庁の整理も、一律にLoRAが違法だとしているわけではなく、目的や作品群の内容、出力結果などによって個別に判断するとしている。
しかし、「○○という作家を完全再現するモデルです」と銘打って、その作家の作品だけを集めたAIを配布するのであれば、少なくとも一般的な基盤モデルの学習とはかなり違う問題になる。
人間が真似するのとAIが真似するのは同じなのか
ここで必ず出てくるのが、「人間だって他人の作品を真似して上達するではないか」という議論である。
私は、この指摘にはかなり重要な部分があると思っている。文章を書く人間も、好きな作家の文章を読んでいる。最初は意識的に真似することもある。語彙や文章のリズム、場面の作り方、物語の構成などを学び、そのうち複数の影響が混ざり合って自分の文章になっていく。
だから、人間には許されている学習や模倣を、AIだからという理由だけで全面的に禁止することには違和感がある。
ただし、人間とAIが完全に同じであるとも思わない。
人間が一人の作家を研究して、その作風に近い絵を一日に数枚描くことと、AIが数秒で何百枚も生成することでは、社会に与える影響が違う。特定の作家の名前を使ったモデルが広く配布されれば、本人が一生かかって制作できる数をはるかに超える「その人らしい作品」が短期間で市場に出回ることもあり得る。
これは、著作権侵害になるかどうかとは別の問題として考える必要がある。
法律が守る対象が同じだからといって、技術による影響まで同じとは限らない。写真が登場したとき、写真と肖像画は同じではなかった。しかし写真が肖像画家の仕事に大きな影響を与えたことは事実である。デジタルカメラが登場したときも、写真を撮るという行為自体は昔から存在したが、撮影と複製のコストが劇的に変わった。
生成AIでも同じことが起きている。模倣という行為自体は新しくない。新しいのは、その速度、規模、価格である。
「作風を奪われた」と「著作権を侵害された」は同じではない
ここは、かなり冷たい話に聞こえるかもしれない。
ある作家が長年かけて独特の作風を作り上げた。その作風をAIが再現できるようになり、その結果として依頼が減ったとする。本人にとっては、明らかな損失である。「自分のものを奪われた」と感じるのも当然だろう。
しかし、その生成物が本人の具体的な作品を再現していないのであれば、その損失がそのまま著作権侵害になるわけではない。文化庁の整理でも、作風や声など著作権法上の権利の対象とならない部分が似た生成物によって、クリエイターの仕事が奪われることへの懸念そのものと、著作権侵害の成立とは区別されている。
これは、第1回で書いた「仕事そのものは著作権で保護されていない」という話につながる。
ある技術が既存の職業を代替することと、既存の成果物を盗むことは同じではない。自動翻訳によって翻訳者の仕事が減るかもしれない。コード生成AIによってプログラマーがこれまで手作業で書いていた部分が減るかもしれない。自動運転によって運転手の仕事が減る可能性もある。
それぞれ社会的には重大な問題である。しかし、その仕事が減ったというだけで、既存の労働者が新しい技術を禁止できるわけではない。
著作者についても同じだと思う。著作物を作っているという理由だけで、他の職業には与えられていない「自分を代替する技術を拒否する権利」まで著作権から導き出すのは無理がある。
ただし、作者の名前まで自由に使ってよいとは限らない
作風そのものと、作者の名前を利用することも分けて考える必要がある。
たとえば、「○○風」と個人的にAIへ指示することと、「○○公式AI」「○○本人が制作した作品」「○○公認モデル」と誤解されるような形で生成物やモデルを販売することは同じではない。
著作権の問題にならなくても、他人の商品や活動との関係について誤認させる表示、氏名やブランドの利用、信用を傷つけるような利用などは、著作権とは別の法律上の問題を生じさせる可能性がある。具体的には商標、不正競争、契約、人格的利益などが関係する場合があり、個別の事情によって判断される。
そして法律以前の問題としても、本人が作ったものではないのに、本人の名前を利用して価値を付ける行為には、作風を研究することとは別の違和感がある。
「この作家の影響を受けている」と「この作家が作ったように見せる」の間には、大きな違いがある。
作風には著作権がないなら、何をしてもよいのか
もちろん、そういう話ではない。
法律で禁止されていないことと、社会的に何をしても構わないことは同じではない。
たとえば、亡くなった作家の作風を研究して新しい作品を作ることと、現在活動している新人作家の作品を大量に集め、その人の名前を付けたモデルを翌日に公開することでは、同じ「作風の模倣」でも受け取られ方は違うだろう。法律上の結論が同じになるとしても、倫理や商慣行として適切かという問題は残る。
逆に、こうした不快感をすべて著作権の問題に変換することにも慎重であるべきだと思う。
「嫌だから禁止する」という基準で作風に独占権を与えれば、人間同士の創作にも影響が及ぶ。ある漫画家に影響を受けた新人が似た線を描いた。ある小説家を読み込んだ若い作家の文章に影響が出た。あるバンドに憧れて同じジャンルの曲を書いた。それらまで、先に作風を確立した人が止められるようになれば、新しい創作者が生まれにくくなる。
そして、誰の作風が誰のものなのかを決めること自体も難しい。独創的に見える作家にも、その前に影響を受けた作家がいる。さらに遡れば、別の時代や別の文化へ行き着く。創作の歴史は、完全な無から個人が作風を発明し、それを永久に所有するというほど単純ではない。
問題は「似せたこと」より、「何を利用したか」にある
AIと作風の議論では、「似ている」という感覚だけで話が進みやすい。しかし、著作権という観点では、もう少し具体的に見る必要がある。
一枚の作品を入力し、その構図や人物を残したままAIで描き直したのか。多数の作品から一般的な絵の特徴を学んだのか。一人の作家の作品だけを使って追加学習したのか。その追加学習は単なる傾向の取得なのか、それとも元作品の創作的表現を出力する目的だったのか。そして最終的な生成物から、特定の作品の創作的表現を直接感じ取れるのか。
これらを全部まとめて「AIが絵柄を盗んだ」と呼んでしまえば、本当に著作権で守らなければならない部分と、著作権では守れない部分が見えなくなる。
私は、作風や技法を学ぶことそのものについては、AIにもかなり広く認めるべきだと考えている。それは人間が文化から学ぶことと同じだから、というだけではない。作風や技法そのものを誰か一人の所有物にしてしまえば、新しい創作や技術の発展を大きく制限するからである。
しかし同時に、特定の作品そのものを再現することと、作風を学ぶことは区別しなければならない。特定の作者の作品だけを集め、「この人を再現する」ことを目的としてモデルを作る場合には、一般的な学習とは違う慎重さが必要になる。さらに、その作者本人が制作したと誤認させたり、本人の名前を利用して商品価値を作ったりするのであれば、著作権以外の問題も生じてくる。
作風は誰か一人の所有物ではない。しかし、だから作品まで自由になるわけではない。この二つを同時に認めることが、AI時代の著作権を考えるうえでは重要なのだと思う。
次回は、この連載のもう一つの大きな問題である、「AIがクリエイターの仕事を奪うことは著作権侵害なのか」を考えたい。AIが人間より速く、安く、十分な品質のものを作れるようになったとき、それによって仕事を失うことと、著作物を奪われることは同じなのか。そして、著作物を作る人間だけが技術による代替を拒否できるのかという問題まで踏み込んでみたい。
※なお、「声」そのものは著作権による保護の対象ではないが、法務省は2026年8月7日に公表した見解の中で、人の声を「人物識別情報であり、個人の人格の象徴」と位置付けている。AIによる音声クローンなどについては、著作権とは別に、人格権やパブリシティー権によって保護される可能性がある。