AIと著作権(5)――AIがクリエイターの仕事を奪うことは著作権侵害なのか
ここまで、AIによる著作物の再現、学習、そして作風の模倣について考えてきた。今回は、そこからもう一歩進んで、「AIによってクリエイターの仕事が減ること」を考えたい。
生成AIをめぐる議論では、「私たちの作品を使ってAIを作り、そのAIが私たちの仕事を奪っている」という批判がよく出てくる。この主張には、かなり強い説得力がある。文章を書いてきた人の作品を大量に学習したAIが文章を書く。イラストレーターの作品を学習したAIが画像を作る。作曲家や演奏家が積み上げてきた音楽から学んだAIが音楽を生成する。そして、その結果として、これまで人間に発注されていた仕事の一部がAIへ移っていく。
クリエイターから見れば、「自分たちの仕事を材料に、自分たちを不要にする機械を作られた」と感じても不思議ではない。
しかし、それは著作権侵害なのだろうか。
私は、この問題についてはかなり明確に分けて考えるべきだと思っている。既存の作品そのものをコピーすることと、新しい技術によって同じ仕事ができるようになることは、同じではない。著作権が守るのは具体的な著作物であって、その著作物を作る職業や技能、その人に将来発注されるはずだった仕事までを保証する制度ではない。

著作権が守るのは「作品」であって「仕事」ではない
私自身、文章を書く。小説を書くこともあれば、それ以外の文章を書くこともある。自分が書いた文章をそのままコピーされ、他人の名前で発表されれば、当然ながら問題だと思う。それは著作権が守るべき領域である。
しかし、「文章を書く能力」そのものを私が独占しているわけではない。私の文章を読んだ人が何かを学び、もっと上手な文章を書くようになっても、それを止めることはできない。他の作家が私と同じ題材について、私より面白い小説を書いたとしても、「その結果、自分の本が売れなくなった」という理由で、その小説を禁止することはできない。
著作権が保護するのは、思想や感情が創作的に表現された具体的な著作物である。文章を書くという能力、小説を構成する技術、魅力的な人物を作る方法、あるいは「作家として仕事を受注できる地位」そのものが著作権によって保護されているわけではない。
これは文章だけの話ではない。プログラムであれば、具体的に書かれたコードが著作物になることはある。しかし、「プログラムを書く能力」そのものに著作権があるわけではない。写真家の写真は著作物だが、写真を撮影する能力そのものに著作権があるわけではない。イラストレーターの絵は著作物だが、絵を描く仕事そのものが著作権によって保証されているわけではない。
この区別は、AIの問題を考えるうえでかなり重要だと思う。
技術は昔から人間の仕事を代替してきた
新しい技術が登場すると、それまで人間が行っていた仕事の一部が不要になる。これはAIに始まった話ではない。
馬車の時代には、馬を育てる人、馬車を作る人、馬車を操る人が大量に必要だった。自動車が普及すれば、その需要は大きく減る。しかし、馬車を操る技術を持った人が、「自動車によって自分の仕事が奪われるから自動車を禁止してほしい」と要求しても、それが認められるわけではない。
印刷の世界でも、活字を一文字ずつ組む仕事があり、後には写植があり、それがDTPへ置き換わった。設計図も手で描くことが当たり前だった時代からCADへ移った。写真の登場は肖像画の需要を変え、デジタルカメラはフィルム産業を大きく変えた。インターネットは新聞、広告、旅行代理店、地図、通信販売など、数え切れないほどの産業を変えてきた。
もちろん、古いものが完全に消滅するとは限らない。馬車も残っているし、活版印刷にも価値がある。フィルムで写真を撮る人もいる。手で絵を描く人がAIによって完全にいなくなるとも思わない。
しかし、「残っている」ことと「産業の中心であり続ける」ことは違う。技術によって需要が十分の一になれば、文化として残ったとしても、それを職業として続けられる人の数は大きく減る。
生成AIによって、同じことが文章、イラスト、音楽、映像、翻訳、プログラミングなどに起こる可能性はある。
クリエイターだけが技術による代替を拒否できるのか
ここで私は、著作権を理由としてクリエイターだけが特別な立場を持つことには疑問を感じる。
工場で働いていた人が産業用ロボットに仕事を奪われても、「自分が長年身につけた組立技術をロボットが模倣した」として、その技術の使用を禁止することはできない。タクシー運転手が自動運転によって仕事を失ったとしても、長年かけて身につけた運転技術そのものを理由に、自動運転システムの開発を止める権利が当然に生まれるわけではない。
ところが、文章、絵、音楽などの場合には「著作権」が存在する。そのため、著作物を作る人だけが、著作権を使って自分を代替する技術そのものを止められるのではないか、という議論が生まれる。
私は、それは著作権という制度を広げすぎていると思う。
著作権があるのは、創作という仕事だけを技術革新から保護するためではない。著作者が作った具体的な作品について、複製、公開、販売などを一定期間コントロールできるようにすることで創作を促し、文化の発展につなげるための制度である。
もし「新しい技術によって著作者の仕事が減る」という理由だけで、その技術による学習や生成を禁止できるのであれば、著作権は作品を保護する制度から、既存の職業を競争から保護する制度へと変わってしまう。
「仕事が奪われた」は、著作権侵害とは限らない
極端な例を考えてみる。
あるAIが、既存の小説を一文もコピーせず、特定の作家の文章も再現せず、完全に新しい文章を生成できるようになったとする。そのAIが非常に優秀で、人間が数日かけて書いていた広告文を数秒で作り、その品質も十分だった。その結果、広告コピーを書く仕事の多くがAIへ置き換わったとする。
これは、コピーライターにとっては深刻な問題である。しかし、AIが誰かの具体的な文章を侵害していないのであれば、「仕事を奪った」という理由だけで著作権侵害になるとは考えにくい。
イラストでも同じである。AIが特定の作品を再現せず、特定の作家の創作的表現もコピーせず、それでも依頼者が必要とする画像を数秒で作れるなら、人間への発注は減るかもしれない。その経済的影響は非常に大きいが、それと既存作品の著作権侵害は別の問題である。
文化庁も、現在のAIと著作権に関する整理の中で、AIによる作品の利用については、既存著作物の創作的表現が利用されているか、学習時の利用が著作権者の利益を不当に害するか、生成物に類似性や依拠性があるかといった著作権法上の要件を個別に検討している。単にAIが既存クリエイターと競争するようになったという事実だけを、著作権侵害の要件としているわけではない。
だからこそ、「AIによって仕事が減った」という問題と、「AIが私の作品を侵害した」という問題は分けなければならない。
それでも「普通の技術革新とは違う」という反論がある
ただし、この話には強い反論がある。
自動車は馬車を見て学習して作られたわけではない。産業用ロボットは、工場労働者の体をコピーして製造されたわけではない。それに対して生成AIは、まさに作家、イラストレーター、写真家、音楽家、プログラマーなどが作ってきた大量の成果物を学習して能力を獲得している。
「自分たちが作ったものを材料として、自分たちと競争する機械が作られた」という点で、過去の機械化とは違うという主張である。
これは軽視すべき反論ではないと思う。
しかも、個人の作家が別の作家の作品を数十冊読んで影響を受けることと、巨大企業が数億、数十億という著作物を機械的に収集し、短期間で世界中へ提供できるモデルを作ることは、規模がまったく違う。それによって生じる経済的な力も違う。
人間同士の競争では、一人の作家が一日に書ける文章量には限界がある。しかしAIは、ほぼ同時に何百万人へ文章を提供できる。一人のイラストレーターが一日に描ける絵には限界があるが、生成AIにはその制約がない。
したがって、「人間も他人から学んでいるのだから同じだ」という説明だけで、この問題を終わらせるのも適切ではない。
問題は著作権だけで解決するべきなのか
では、AI企業が大量の著作物を利用して巨大な利益を得るのであれば、クリエイターへ利益を還元する仕組みを作るべきなのだろうか。
これは十分に議論する価値があると思う。学習データの透明性を高めること、権利者とAI企業がライセンス契約を結ぶこと、特定のコンテンツについて包括的な許諾制度を作ること、プラットフォームとクリエイターが利益を分配する仕組みを作ることなど、さまざまな方法が考えられる。
実際、AI企業と出版社、報道機関、写真会社、音楽会社などの間で、データ利用やコンテンツ提供をめぐる契約が行われるようになっている。市場として対価を支払う仕組みを作ることと、著作権法によってすべての学習を禁止することは同じではない。
また、AIによって大量の仕事が失われるのであれば、それは著作権政策だけではなく、労働政策、教育、再訓練、税制、社会保障、所得分配などの問題として考える必要がある。
新しい技術によって生産性が大きく上がり、社会全体として豊かになる一方で、その利益が一部の企業や資本所有者だけに集中し、仕事を失った人には何も戻らないのであれば、それは非常に大きな社会問題になる。しかし、その問題を解決するために、すべてを「著作権侵害」と呼ぶ必要はない。
むしろ、何でも著作権の問題にしてしまうことで、本当に議論しなければならない所得分配や産業構造の問題が見えなくなる可能性すらある。
AI学習を制限すれば、クリエイターの仕事は守られるのか
では、著作者の許可なく作品をAI学習に使うことを禁止すれば、クリエイターの仕事を守ることができるのだろうか。
ここでは、禁止をすり抜けて誰かがAIを作るという話はいったん考えないことにする。仮に法律が完全に守られ、著作権のある作品を無許諾で学習することが一切なくなったとしても、それだけでクリエイターの仕事が守られるとは限らない。
AIは、著作権者から正式に許諾を受けた作品、著作権の保護期間が終了した作品、企業が自ら保有するデータ、自由な利用が認められたデータなどを使って開発することができる。さらに、すでに十分な能力を持ったAIが作られれば、そのAIによって生成された大量のデータを次の学習に利用することも考えられる。
そして、そのように著作権を侵害せずに作られたAIが、人間より速く、安く、依頼者にとって十分な品質の文章や画像や音楽を作れるようになれば、やはり人間への仕事の発注は減る。
ここが重要だと思う。
著作権侵害を防ぐことと、AIによる仕事の代替を防ぐことは同じではない。
たとえば、すべての学習データについて正当な許諾を得た画像生成AIが作られたとする。そのAIが一枚数十円で広告用のイラストを作れるのであれば、それまで一枚数万円で仕事を受けていたイラストレーターと競争することになる。そこで仕事を失った人がいたとしても、その原因は著作権侵害ではない。合法的に作られた新しい技術との競争である。
文章でも同じである。出版社や著作者と正式な契約を結び、適法なデータだけで高性能な文章生成AIが作られたとして、そのAIが商品説明、広告文、簡単な記事などを短時間で書けるのであれば、人間のライターへの発注は減るかもしれない。
つまり、「AIが無断で私たちの作品を学習しているから仕事が奪われる」という問題と、「AIそのものが私たちと同じ仕事をできるようになったから仕事が減る」という問題は分けなければならない。
前者については、著作権や契約、データ取得の方法を議論すればよい。しかし、それをすべて解決しても後者は残る。
もちろん、学習を許諾制にすればAI開発のコストが上がり、開発速度が遅くなり、クリエイターへの対価還元が増える可能性はある。それには大きな意味がある。しかし、それは「現在の仕事をそのまま残す」こととは違う。
ここを混同すると、AIによる無断利用を禁止すればクリエイターの職業も保護できるという期待を持つことになる。しかし、技術そのものが人間と同じ成果物を作れるようになった以上、著作権の問題をすべて解決しても、人間とAIの競争までなくなるわけではない。
だから私は、著作権を守ることは必要だと思う一方で、それをクリエイターの職業を守るための制度として使うことには限界があると思っている。
守れるのは作品である。仕事の将来まで保証することはできない。
残る仕事と、減っていく仕事
私は、AIによって文章を書く人や絵を描く人が完全に消えるとは考えていない。
人間が書いた小説を読みたいという需要は残るだろう。作家という人物そのものに価値を感じる読者もいる。人間が描いた絵を所有したい人もいる。舞台、ライブ、美術作品などでは、「誰が作ったのか」「誰が演じているのか」ということ自体が価値になる。
一方で、誰が作ったかがあまり重要でない仕事は、かなり大きくAIへ移る可能性がある。
商品の説明文、広告用の短い文章、簡単なイラスト、ウェブサイトの背景画像、仮のデザイン、プレゼン資料の画像、映像の一部、定型的な翻訳、簡単なプログラムなど、「必要な成果物が手に入ればよい」という仕事では、価格と速度の差が非常に大きな意味を持つ。
人間が一万円で一日かけて作るものを、AIが数十円で数秒で作り、その品質が依頼者にとって十分なのであれば、すべての依頼者に「人間へ発注するべきだ」と要求することは難しい。
これは冷たい話ではある。しかし、過去の技術革新でも同じことが起きてきた。
成果物を守ることと、職業を守ることを分ける
私は、AI時代になっても著作権は必要だと思っている。むしろ、簡単に大量のコピーを作れる時代だからこそ、具体的な著作物を無断で複製したり、改変したり、自分のものとして公表したりする行為については、しっかり権利を守る必要がある。
しかし、その保護を「自分と同じ仕事をAIにさせない権利」にまで拡張するべきではないと思う。
著作物という成果物を守ることと、その成果物を作る能力や職業を守ることは別である。
新しい技術によって仕事が減ることは、本人にとっては極めて深刻な問題である。私自身も文章を書く以上、AIが私より優れた文章を書き、それによって人間が文章を書く仕事がほとんどなくなる未来が来れば、無関係ではいられない。
それでも、「自分の仕事がなくなる可能性があるから、その技術は自分の作品から学んではならない」というところまで著作権を広げることには賛成できない。
工業、運輸、印刷、設計、写真、翻訳、プログラミングなど、多くの仕事が技術によって変化してきた。著作物を作る人だけが、自分たちの仕事について永続的な保護を受けられるというのは不自然である。
守るべきなのは作品である。技術によって職業が変化することへの対応は、それとは別の社会的な仕組みとして考えるべきだと思う。
AIによって仕事を失うことは、本物の問題である
ここで誤解してほしくないのは、「著作権侵害ではない」ということと、「問題ではない」ということはまったく違うということである。
AIによって大量の仕事が失われ、所得が一部の企業へ集中するのであれば、それは著作権侵害よりはるかに大きな社会問題になる可能性すらある。創作を職業として成立させる人が極端に減れば、文化そのものにも影響が出るかもしれない。人間が作品を作り続けるために、何らかの新しい対価還元制度が必要になる可能性もある。
ただし、それならば、その問題として議論すべきである。
著作権によって守られている作品をコピーしたのなら、著作権の問題として扱う。学習データの取得方法に問題があるなら、その問題を扱う。AI企業への利益集中が問題なら、競争政策や税制、利益分配を議論する。失業が問題なら、雇用や社会保障を議論する。
異なる問題をすべて「AIが盗んだ」という言葉へ押し込めてしまえば、結局、何をどの制度で解決するべきなのかが分からなくなる。
AIがクリエイターの仕事を奪う未来は、十分にあり得ると思う。しかし、それは必ずしも著作権侵害によって起こるわけではない。正当に作られた技術が、人間より速く、安く、より良い成果物を作れるようになることによっても起こり得る。
そして、そのとき私たちが向き合わなければならないのは、「AIを禁止すれば元に戻れるのか」という問題ではなく、AIによって生産力が大きく上がった社会で、人間の仕事、所得、創作、そして生き方をどう組み直していくのかという、もっと大きな問題なのだと思う。
次回は視点を反対側へ移し、「AIで作った作品は誰のものなのか」を考えたい。生成ボタンを押しただけの画像に著作権はあるのか。プロンプトを書いた人は著作者なのか。何度も生成を繰り返し、人間が選択や修正を加えた場合はどうなるのか。AIを使って作ったものを、今度は誰かにコピーされたとき、AI利用者は著作権を主張できるのかを整理していきたい。