AI2040を読む

Citizen’s Dividendは本当に実現できるのか――年間100万ドルを配る経済の仕組み

「AI 2040」のPlan Aには、いくつもの驚くべき未来が描かれている。人間と同等以上の能力を持つAIが大量に稼働し、ロボットが工場を建て、病気や老化の克服が進み、2040年には安全性を確認したうえで超知能への道が再び開かれる。

しかし、その中でも最も荒唐無稽に見えるのは、やはりCitizen’s Dividendだろう。

2032年には、アメリカの成人一人当たり年間4万5,000ドル。2035年には約100万ドル。しかも名目上の100万ドルではなく、現在の購買力へ換算した実質額である。公式のシナリオ本文や過去のモデル表示では、2033年に2万5,000ドル、2035年に160万ドルという数字も示されていたため、細かな金額はモデルの更新によって動いているようだが、いずれにしても言いたいことは同じである。

AI時代には、現在のベーシックインカム論とは比較にならないほど巨額の所得を、すべての市民へ配れるようになる。

年間100万円ではない。

年間100万ドルである。

日本円に換算して何億円になるかは、その時代の為替がどうなっているか分からないので、あまり意味がない。しかし現在の価値に換算して、おおよそ1億円を超える購買力を、毎年すべての成人が受け取るという話だと思えばよい。

普通に考えれば、そんなものは実現するはずがない。現在のアメリカ政府が全国民へ毎年100万ドルを配ろうとすれば、国家予算を何十倍にしても足りない。富裕層と大企業からすべての財産を没収したところで、一度は配れても翌年には続かない。通貨を大量発行すれば、猛烈なインフレが起き、100万ドルという数字だけが残って実際にはパン一斤しか買えなくなるかもしれない。

ところが「AI 2040」の著者たちは、現在の税収から100万ドルを捻出しようとしているのではない。

彼らが想定しているのは、AIとロボットによって経済そのものが数十倍、数百倍に拡大し、その新しい生産能力を利用する権利を政府が販売して、収入の大部分を国民へ配る制度である。

つまりCitizen’s Dividendとは、豪華な生活保護ではない。

AI経済の株主配当なのである。

そもそも、Citizen’s Dividendとは何か

Citizen’s Dividendを直訳すれば「市民配当」である。ここで重要なのは、著者たちがBasic Incomeという言葉を使わず、Dividendと呼んでいることだ。

ベーシックインカムは一般に、生活を維持するための最低所得を政府が保障する制度として語られる。失業しても、病気になっても、生活に必要な金額だけは無条件で受け取れる。既存の社会保障制度を単純化し、行政コストを削減するという文脈でも論じられる。

それに対してCitizen’s Dividendは、最低生活を保障するための救済策ではない。市民一人ひとりがAI経済の共有資産に対する持分を持ち、そこから生まれた収益を配当として受け取るという発想である。

似た仕組みとして、アラスカ州のPermanent Fund Dividendがある。アラスカ州は石油収入の一部を基金へ積み立て、その運用益を住民へ毎年配っている。石油は州民全体の共有資源であり、その利益は一部の企業や投資家だけではなく、住民にも還元されるべきだという考え方である。

Plan Aでは、石油の代わりにAIとロボットの生産能力が共有資源になる。

もちろん、AIは地下から自然に湧いてきた天然資源ではない。民間企業が研究者を雇い、データセンターを建設し、巨額の資金を投入して開発した技術である。それを国民全体の共有資源と呼ぶのは乱暴ではないかという反論は当然あるだろう。

しかし、AIが人間の労働のほぼすべてを代替する段階まで進めば、話は変わる。

社会の全生産能力を少数の企業が所有し、ほとんどの人間には売るべき労働力がなくなる。企業の所有権をそのまま維持すれば、AIとロボットの所有者だけが莫大な所得を得て、それ以外の人々は仕事と所得と政治的な影響力を同時に失う。

その未来を避けるには、AIの生産能力から生まれる利益の一部を、国民全体の所有物として制度化しなければならない。これがCitizen’s Dividendの思想的な出発点である。

年間100万ドルを、どこから持ってくるのか

Citizen’s Dividendを理解するうえで、現在の経済規模を基準に考えてはいけない。

現在のアメリカ経済から税金を集め、国民へ100万ドルずつ配るのではない。AIとロボットによって、世界経済が現在の数十倍、数百倍に成長することが前提になっている。

公式の経済モデルでは、世界の実質GDPが2030年代を通しておよそ200倍になると想定されている。これは普通の経済成長ではない。過去500年間に起きた世界経済の拡大が、十数年のうちに再現されるようなものである。

かなり無茶な話に聞こえる。

実際、普通の経済予測として考えれば無茶である。

世界経済が年3%で成長すれば、およそ24年で2倍になる。年7%なら約10年で2倍になる。高度経済成長期の日本や中国のような急成長でも、10%前後を何十年も続けることは難しい。

Plan Aの経済モデルが想定するのは、一時期とはいえ年90%近い実質成長である。ほぼ毎年、経済が倍になる。

そんな成長がなぜ可能なのか。

著者たちの答えは、人間の数が経済成長の制約ではなくなるからである。

AIは、労働人口を複製できる

現在の経済では、高度な仕事を行う人間を増やすのに時間がかかる。

医師を一人育てるには、長い教育と訓練が必要である。科学者、技術者、弁護士、経営者も同じだ。優秀な研究者を来年までに100万人増やしたいと思っても、人間の人口と教育制度には限界がある。

ところが、人間と同程度の能力を持つAIが完成すれば、優秀な研究者を複製できる。

一つのAIモデルを作った後は、十分な半導体と電力があれば、同じ能力を持つAIを何百万、何千万と同時に動かせる。人間のように生まれてから20年待つ必要もなければ、一人ずつ大学へ通わせる必要もない。

プログラマーAIを100万体稼働させる。研究者AIを100万体稼働させる。医師AIを100万体稼働させる。さらに、そのAIたちが次世代の半導体、より効率的なアルゴリズム、新しい医薬品、工場、発電設備を設計する。

人間社会では、研究者の数が2倍になっても研究成果が単純に2倍になるとは限らない。会議や調整が増え、優秀な指導者や設備が不足するからだ。しかしAIであれば、知識を瞬時に共有し、24時間働き、同じ実験を数百万通り並行して進められる可能性がある。

さらにAI自身が、より効率のよいAIを開発する。

賢いAIが次のAIを作り、そのAIがさらに短い時間で次の世代を作る。能力が上がるほど研究速度が上がり、研究速度が上がるほど能力が上がる。

これが、前回までの記事でも触れてきた知能爆発である。

Plan Aでは、この知能爆発をそのまま放置しない。人間を大きく上回る超知能へ一気に進むことは禁止する。しかし、世界最高の人間の専門家と同程度のAIまでは大量に利用する。

つまり、アインシュタインやフォン・ノイマンやテスラに相当する能力を持つAIを、何百万体も働かせる世界である。

それだけでも経済成長が現在とは別物になるというのが、著者たちの考えだ。

デジタル世界だけでは、200倍にはならない

もっとも、AIがいくら賢くても、それだけで住宅や食料や自動車が増えるわけではない。

AIが一億体になれば、ソフトウェア、映像、教育、設計、法律相談などのデジタルサービスは大量に作れる。しかし、人間はデジタルデータだけでは生きられない。食料が必要で、住宅が必要で、エネルギーが必要で、道路や病院や工場が必要である。

そこで必要になるのがロボットだ。

Plan Aの経済モデルでは、AIがロボットを設計し、ロボットが工場を建て、工場が新しいロボットを作る。鉱山の採掘、資源輸送、部品製造、組み立て、保守点検までが自動化される。

最初の100万台のロボットが、1年間に新しい100万台を作る。翌年には200万台になり、その200万台がさらに200万台を作る。製造技術が改善されれば、倍増に必要な期間はさらに短くなる。

いわば、機械が機械の人口を増やす。

人間の人口は一年で倍にはならないが、工業設備なら理論上は可能である。工場を建てるための工場を作り、ロボットを作るためのロボットを作る。必要な資源とエネルギーを確保できれば、生産能力は指数関数的に増える。

著者たちは、超人的なAIによる技術革新を考慮しなくても、高度に自動化された経済はおよそ一年ごとに倍増できる可能性があるとする研究を参照している。そこへAIによる設計改善や新技術が加われば、さらに急速な成長もあり得るという。

この前提が正しければ、年間100万ドルという配当も、少なくとも算術上は不可能ではない。

経済全体が現在の100倍、200倍になれば、その数%を国民へ配るだけでも、現在のGDPから配るよりはるかに巨額になるからである。

AIとロボットを、好きなだけ増やしてはいけない

ただし、ここで一つの矛盾が生じる。

AIとロボットを大量に増やせば経済は成長する。しかし自由に増やさせれば、AI開発が政府の管理を超え、超知能への暴走を止められなくなる。

そこでPlan Aでは、AIチップ、計算資源、ロボットの生産量に上限を設ける。

企業は、政府の許可なしに高性能AIを大量稼働させたり、ロボットを無制限に増やしたりできない。新しい計算資源やロボットを経済へ投入するには、政府が発行する許可証を購入しなければならない。

仕組みとしては、二酸化炭素の排出量取引制度に近い。

排出量取引では、政府が社会全体で許される温室効果ガスの排出量を決め、その範囲内で企業へ排出枠を割り当てたり、競売にかけたりする。企業は排出量を増やしたければ、新しい排出枠を買わなければならない。

Plan Aでは、炭素の代わりにAIとロボットの増殖能力を管理する。

政府は、今年増やしてよいAI用計算資源とロボットの総量を決める。企業はその許可証を競売で購入し、落札した範囲内でAIやロボットを稼働させる。

これがCitizen’s Dividendの財源になる。

許可証は、なぜそれほど高く売れるのか

例えば、一台の高度なロボットを製造する費用が100万円だったとする。しかし、そのロボットは24時間働き、さらに新しいロボットを作り、一年間に1,000万円以上の利益を生み出す。

企業は、100万円の機械を手に入れるためではなく、1,000万円以上の利益を生む能力を手に入れるために許可証を買う。

許可証が500万円でも利益は残る。800万円でも、将来の成長を考えれば買うかもしれない。

より正確には、企業が支払うのは現在の一年分の利益だけではない。そのロボットが翌年に新しいロボットを生み、さらにそのロボットが次のロボットを生む将来価値まで含まれる。

自己増殖する生産設備の許可証である。

当然、非常に高くなる。

しかも、政府がAIとロボットの総数を厳しく制限すれば、許可証は希少になる。AI企業、製造業、医療企業、物流企業、軍需企業などが、限られた許可証を奪い合う。最も高い利益を生み出せる企業が、最大限の金額を払って落札する。

この許可証の販売収入を、国民へ配る。

流れを単純化すれば、次のようになる。

AIとロボットが巨大な利益を生む

政府が増殖可能な総量を制限する

企業が増殖許可証を競売で購入する

許可証収入の大部分を市民へ配る

これは、企業が利益を上げた後で税金を取る制度ではない。

利益を生み出す生産能力へアクセスする段階で、先に料金を取る制度である。

政府が直接配るのではない

Plan Aの公式資料では、許可証収入の一定割合を「Compute Dividend Corporation」という組織が法的に所有する構想になっている。

アメリカ国民は、この組織の株式を一人一株ずつ持つ。そしてCompute Dividend Corporationが受け取った許可証収入を、株主配当として平等に受け取る。

2032年にはアメリカ国内の許可証収入の25%がこの配当組織へ移され、2035年までに75%へ引き上げられる。公式モデルでは、2032年の配当原資が約13兆ドル、2035年には約300兆ドルになる。対象となる成人を約3億人とすれば、一人当たりそれぞれ約4万4,000ドル、約100万ドルになる計算である。

ここでわざわざ政府の一般会計を通さず、国民が株式を所有する法人を作るのには意味がある。

政府が許可証収入を普通の税収として受け取れば、国防費、インフラ、国債返済、行政費、企業補助金などへ使われ、配当が後回しになる可能性がある。政治家が年度ごとに配分を変えるかもしれない。

それに対して、許可証収入の一定割合が国民の法的な所有物であると決めてしまえば、政府は勝手に別の用途へ使いにくくなる。

市民は政府から恩恵を受ける受給者ではなく、AI経済の共有持分を所有する株主になる。

なかなか考えられた仕組みである。

実現できるかどうかは別として。

なぜ普通の法人税では駄目なのか

AI企業が莫大な利益を得るなら、法人税をかけて配ればよいと思うかもしれない。

しかし、著者たちはそれでは十分な財源にならない可能性が高いと考えている。

爆発的な成長期にある企業は、利益を配当として外へ出さない。得られた収入を、新しい半導体、データセンター、ロボット工場、発電設備へ再投資する。

今年100兆円を株主へ配るより、その100兆円でロボットを増やし、来年の企業価値を200兆円、400兆円へ拡大した方がよい。

設備投資や研究開発費は、会計上の費用や減価償却として扱われる。企業価値は猛烈に上昇していても、課税対象となる利益は小さくできるかもしれない。さらに国際的な企業であれば、知的財産権や取引を利用して、利益を税率の低い国へ移すことも考えられる。

株式への課税も難しい。株価が100倍になっても、所有者が株式を売らなければ、一般には利益が確定しない。含み益へ毎年課税しようとすれば、評価方法や市場変動をめぐって大きな問題が生じる。

そこで、利益や株価を後から追いかけるのではなく、AIとロボットを増やす入口で料金を取る。

企業が会計上の利益をどう処理しようと、許可証がなければ新しいAIやロボットを稼働できない。許可証の競売価格は、その生産能力が実際に生む価値を市場が評価して決める。

法人税より逃げにくく、爆発的成長の利益を早い段階で社会へ還元できるというわけである。

人間の賃金は、完全にはゼロにならない

Plan Aの2035年には、経済上の作業の約95%がAIとロボットによって自動化されると想定されている。

それでも、人間にしかできない仕事が約5%残る。

人間による監督、AI施設の監査、政治的判断、儀礼的な役割、人間本人であることに価値のある芸術や接客などである。AIに任せられないのではなく、制度上あえて人間へ残される仕事も含まれる。

経済全体が巨大化しているため、そのわずか5%の人間労働だけでも、総賃金は相当な額になる。公式資料では、アメリカ人一人当たりへ平均すれば年間12万ドルを払えるほどの賃金総額が残ると試算されている。

しかし、平均で12万ドルというのは、全員が12万ドルずつ受け取るという意味ではない。

残された仕事に就ける一部の人へ、所得が極端に集中する可能性がある。人間の歌手、俳優、政治家、監査官、宗教家、スポーツ選手、経営責任者などには高額な報酬が支払われる一方、大多数の人には仕事がないかもしれない。

さらに現在、アメリカ経済では所得の半分以上が労働者への賃金として分配されているが、Plan Aの2035年には、賃金総額が経済全体の約10%まで低下するという。

残りの大部分は、AI、ロボット、データセンター、土地などの所有者へ流れる。

つまりAI経済では、仕事が完全になくなること以上に、労働所得が社会の中心ではなくなることが重要である。

現在は、多くの人が労働によって経済成長の分配を受けている。AI時代には、その経路が細くなる。代わりに、AI資本の所有権を国民へ分配しなければならない。

Citizen’s Dividendは失業対策というより、所得の発生源を労働から資本所有へ切り替える制度なのである。

イーロン・マスクのUniversal High Incomeとの違い

AIとロボットがほぼすべての仕事を担うようになれば、単なるUniversal Basic Incomeではなく、Universal High Incomeが実現するとイーロン・マスクは繰り返し述べている。

Basic、つまり最低限ではなく、High Incomeである。

商品やサービスが大量に生産され、希少性が大幅に減れば、すべての人が現在の富裕層に近い暮らしを送れるようになる。わざわざ最低限の生活費だけを配る必要はなくなるという考え方だ。

Citizen’s Dividendは、その考え方にかなり近い。

ただし「AI 2040」は、マスクのUniversal High Incomeより制度設計が具体的である。

AIが豊かさを生み出せば、自然に全員が豊かになるわけではない。AI企業が商品を安く提供しても、仕事を失った人に収入がなければ買えない。食料やソフトウェアが安くなっても、土地や希少資源は高騰するかもしれない。

そのため、AIとロボットの増殖許可証を競売にかけ、そこから得られた収入を国民が法的な配当として所有する。

豊かさが自然に滴り落ちてくることを期待するのではなく、最初から配分経路を制度へ組み込むわけである。

Universal High Incomeが未来像なら、Citizen’s Dividendは、その未来へ至るための財政装置と言ってよい。

100万ドルを受け取れば、誰もが大富豪になるのか

公式資料ではCitizen’s Dividendの金額を、インフレ調整後の現在価値で示している。

したがって、2035年の100万ドルは、単に物価が100倍になったため給付金も100倍になったという意味ではない。少なくともモデル上は、現在の100万ドルに近い実質的な購買力を持つ。

ただし、未来の100万ドルで買えるものは、現在とはかなり異なる。

AIとロボットによって大量生産できるものは、極端に安くなるだろう。

  • 教育
  • 法律相談
  • 医療診断
  • ソフトウェア
  • 映像や音楽
  • 衣服
  • 日用品
  • 自動車
  • 建築作業
  • 多くの食料

AIの家庭教師が一人につき何百体も付き、世界最高水準の医療AIが常時健康を監視し、ロボットが注文に応じて住宅や自動車を作る。こうした生活は、現在の大富豪でも手に入れられない。

一方、AIとロボットでも増やせないものは残る。

  • 都心の土地
  • 海辺や景勝地
  • 歴史的建築物
  • 希少な美術品
  • 有名人本人との交流
  • 人間本人によるサービス
  • 限定された社会的地位

東京の土地は、ロボットを増やしても広くならない。すべての人が皇居の隣に住むことはできない。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作も増えない。ある歌手の生演奏を同じ客席で聴ける人数にも限界がある。

公式の経済モデルでは、土地価格が2035年までに平均で10倍から100倍になる可能性も示されている。

住宅そのものはロボットが安く建てられる。しかし便利で人気のある場所は増えないため、建物価格が下がっても土地価格が上がる。Citizen’s Dividendで誰もが豊かになれば、希少な土地を求める需要も増える。

つまり年間100万ドルを受け取れば、食事、医療、教育、交通、娯楽などでは現在の富裕層を超える生活ができるかもしれない。しかし全員が希少な土地や美術品や社会的地位を手に入れることはできない。

全員が豊かになることは可能でも、全員が他人より豊かになることはできない。

当たり前の話だが、年間100万ドルという数字を見ると忘れやすい。

インフレは起きないのか

全国民へ巨額の資金を配れば、通常は激しいインフレが起きる。

商品が100個しかないのに、人々の持つお金だけを10倍にすれば、商品の価格も上がる。全員の銀行口座にゼロを一つ加えても、社会全体が豊かになるわけではない。

しかしCitizen’s Dividendは、単なる通貨発行ではない。

配当の原資となる許可証の価値は、AIとロボットが新たに生み出す実物の財やサービスに対応している。人々が使えるお金が増えると同時に、食料、住宅、車、医療、教育、エネルギーなどの供給能力も増える。

商品が100個から1万個に増えるなら、お金を100倍にしても、必ずしも物価は上がらない。

むしろ、AIとロボットで大量生産できる商品は値下がりする可能性が高い。

ただし、土地や希少資源のように供給量が増えないものには、猛烈な価格上昇が起こり得る。平均的な物価指数が安定していても、生活者の感覚では、あるものはほぼ無料になり、別のものは現在の100倍になるという奇妙な経済になるだろう。

したがって「インフレ調整後の100万ドル」という表現にも限界がある。現在の消費者物価指数で未来の生活水準を正確に測ることはできない。

AIによる医療や教育がほぼ無料になる一方、東京の土地が100倍になる世界で、平均的な購買力とは何を意味するのか。

未来の豊かさを、現在のドルへ換算すること自体に無理がある。

外国の人々には、どれだけ配られるのか

Plan Aでは、アメリカ国民だけが配当を受け取るわけではない。

アメリカは許可証収入の一部を他国への再分配にも使う。公式モデルでは、2032年には許可証収入の10%が外国向けに割り当てられ、その後も一定額が世界へ配られる。

ただし、アメリカ人と同額ではない。

2032年にはアメリカの成人が一人当たり約4万4,000ドルを受け取る一方、その他の国々では平均約1,200ドル。2035年にはアメリカ人が約100万ドル、外国では平均約9,000ドルとされている。

ずいぶん差がある。

著者たちも、これが公正だからそうしているのではなく、アメリカの政治的現実への妥協だと認めている。アメリカの有権者が、自国民と同じ額を外国人へ配ることを支持するとは考えにくいからである。

しかし、ここには大きな問題がある。

AIとロボットが生み出す利益が、アメリカ企業の研究開発だけによって成立したとは限らない。半導体は台湾や韓国で製造され、製造装置は日本やオランダから供給され、学習データには世界中の文章や画像が使われ、資源は各国から集められる。

それにもかかわらず、配当の大部分をアメリカ国民が所有する。

Plan Aは世界政府ではなく、あくまでアメリカと中国を中心とした国際秩序である。そのためCitizen’s Dividendにも、国家単位の所有権が残る。

超知能は全人類の未来を変えるが、配当の額は国籍によって100倍以上違う。

この状態を世界が受け入れるかどうかは、かなり怪しい。

この構想が成立するための第一条件――AIが本当に働けること

ここまでが、著者たちがCitizen’s Dividendを可能だと考える理屈である。

確かに、計算としては成立している。

AIとロボットが人間の仕事をほぼ全面的に代替し、ロボットが自らの製造工程まで自動化し、経済がほぼ毎年倍増する。その増殖速度を政府が制限し、許可証を競売にかければ、莫大な収入が生じる。それを国民へ配れば、年間100万ドルも不可能ではない。

しかし、一つでも前提が崩れれば金額は大きく変わる。

まず、AIが本当に人間の仕事の95%を代替できるのか。

現在のAIは、文章を書き、プログラムを作り、画像を生成し、一定の研究支援もできる。しかし、長期間にわたって自律的に計画を進め、現実世界の複雑な組織を管理し、予期しない問題へ確実に対処できるとは限らない。

ロボットについては、さらに不確実性が大きい。

工場内の定型作業は自動化できても、建設、修理、採掘、農業、介護など、状況が毎回変わる物理作業を人間と同じように行うのは難しい。ロボットの製造を完全自動化するには、鉱山から物流、精密部品、半導体工場まで、非常に長いサプライチェーンを自動化する必要がある。

AIが知的労働の多くを代替しても、ロボットが物理経済へ十分浸透しなければ、食料や住宅やエネルギーの供給は急増しない。

その場合、巨額の配当を行えば、実物の供給が追いつかずインフレになる。

第二条件――経済が本当に年90%成長すること

世界経済が2030年代に約200倍になるという予測は、主流派の経済予測から見れば極端である。

AIが非常に強力になっても、経済成長には物理的な制約が残る。

発電所を建てるには時間がかかる。半導体工場も一夜では完成しない。鉱山の開発には許認可や地域住民との調整が必要である。道路、港湾、送電網、水資源、冷却設備も必要になる。

AIが優れた設計図を一秒で作っても、鉄鉱石を掘り、精錬し、運び、建物を作るには物理的な時間がかかる。

また、経済が急激に変化すれば、制度や人間社会が追いつかない。土地の権利、環境規制、国境、特許、労働法、金融制度、地域社会の反対などが成長を遅らせる。

Plan Aでは超知能を防ぐため、AI能力とロボット生産を意図的に制限する。その厳しい制約の下でも年90%成長できるという計算は、かなり楽観的と言わざるを得ない。

著者たち自身も、経済モデルに大きな不確実性があることを認めている。これは精密な予測ではなく、彼らが置いた前提を入力した場合に何が起きるかを示すシミュレーションである。

つまり、2035年の100万ドルは予言ではない。

「この程度の自動化と自己増殖が起きれば、この程度の配当が可能になる」という条件付きの計算結果である。

第三条件――政府がAIとロボットを完全に把握できること

許可証に高い価値が生まれるのは、許可証なしではAIやロボットを増やせないからである。

企業が無許可でデータセンターを建てたり、秘密工場でロボットを作ったりできるなら、誰も高額な許可証を買わない。

そのため政府は、半導体、データセンター、電力、ロボット工場を正確に監視しなければならない。アメリカ国内だけでなく、中国やその他の国々とも協力し、世界規模で無許可生産を防ぐ必要がある。

Plan Aでは、AI用半導体へ追跡機能を組み込み、巨大データセンターを監査し、アメリカと中国が互いの施設へ監視員を派遣する。秘密のAI開発を発見するため、電力使用量やチップの流通も監視する。

Citizen’s Dividendは、この国際監視体制が機能して初めて成立する。

一部の国や企業が規制を破れば、許可証を買っている企業だけが不利になる。正規企業は高額な料金を払い、秘密企業は無料でAIを増やす。市場競争が成立しない。

許可証制度は、単なる税制ではない。

世界規模のAI管理体制を必要とするのである。

第四条件――政府が許可証を安く配らないこと

制度上は、政府が許可証を競売にかければ巨額の収入を得られる。

しかし現実の政治では、企業が激しく抵抗するだろう。

AI企業は、自分たちが巨額の研究開発費を負担して技術を作ったと主張する。製造業は、高額な許可証によって国際競争力が失われると言う。軍は、安全保障上必要なAIへ料金をかけるべきではないと要求する。農業、医療、エネルギーなども、公益性を理由に特別扱いを求めるだろう。

そして政治家は、特定産業へ無料の許可証を配る。

二酸化炭素の排出量取引でも、産業保護や国際競争力を理由に、排出枠が無償配分されることがある。AI許可証でも同じことが起きる可能性は高い。

許可証が無料、あるいは非常に安く配られれば、経済成長の利益はAI企業とその株主へ流れる。

Citizen’s Dividendの財源は消える。

したがって、この制度を成立させるには、政府が世界最大級の企業や投資家からの圧力に耐え、AIとロボットの増殖権を本当に市場価格で売らなければならない。

技術的な問題より、こちらの方が難しいかもしれない。

第五条件――許可証収入を、本当に国民へ配ること

2035年に300兆ドルもの許可証収入が生まれたとして、政府はその75%を国民へ配るだろうか。

国家には他にも使い道がある。

  • 軍事費
  • AI安全研究
  • 新しい発電所やデータセンター
  • 宇宙開発
  • 医療制度
  • 国債返済
  • 国際援助
  • 警察や監視体制
  • 政府自身のAIとロボット

AIが国家安全保障の中心になれば、政府は国民への配当より、国家が所有するAI能力を増やすことを優先するかもしれない。

また、全員へ同額を配ることへの反発も起きる。

富裕層にも100万ドルを配る必要があるのか。子どもにも配るのか。移民は何年住めば対象になるのか。犯罪者や国外居住者にも払うのか。土地価格の上昇で既に巨額の利益を得た人にも同額を配るのか。

所得制限を設ける。配当の一部を医療や住宅へ置き換える。政府が用途を指定する。地域によって金額を変える。

制度は少しずつ変質するだろう。

Compute Dividend Corporationの株式を国民が法的に所有する仕組みは、それを防ぐために考えられている。しかし法律は改正できる。緊急事態を理由に配当が停止される可能性もある。

年間100万ドルの財源が存在することと、それが国民の口座へ振り込まれることは別問題である。

第六条件――配当が権力の分配にもなること

Plan AがCitizen’s Dividendによって解決しようとしているのは、所得だけではない。

AIによる失業には、三つの問題があると著者たちは考えている。

一つは所得を失うこと。二つ目は社会に参加する場所や生きがいを失うこと。そして三つ目は、政治的な力を失うことである。

現在の労働者は、単に賃金を受け取るだけではない。ストライキを行い、労働組合を作り、企業や政府へ圧力をかけられる。消費者としても市場を動かす。企業は労働者と顧客を無視できない。

しかしAIとロボットだけで生産と消費が循環するようになれば、支配者は一般の人々を経済的に必要としなくなるかもしれない。

国民が貧しいこと以上に、国民が必要とされないことが問題なのである。

年間100万ドルを配れば生活は豊かになる。しかし、それだけで政治的な権力まで回復できるとは限らない。

配当額を決めるのは誰か。AIの増殖量を決めるのは誰か。許可証を販売するのは誰か。Compute Dividend Corporationを管理するのは誰か。

政府やAI企業がすべてを決め、国民は毎年決められた金額を受け取るだけなら、経済的には豊かでも政治的には従属している。

パンとサーカスが、AIと年間100万ドルに変わっただけかもしれない。

Citizen’s Dividendを本当の配当と呼ぶなら、国民は収益を受け取るだけでなく、AI経済の運営に対する議決権も持つ必要がある。

誰がAIを開発し、どこまで能力を上げ、どの分野へ使い、利益をどう配るか。

この決定へ参加できなければ、市民は株主ではなく、単なる給付対象者である。

AIの富は、誰のものなのか

結局、Citizen’s Dividendの最大の問題は、経済成長率でも許可証の価格でもない。

AIとロボットが生み出す富を、誰のものと考えるかである。

現在の所有権をそのまま延長すれば、AI企業を作った創業者、投資家、従業員、半導体企業、土地所有者などが利益を得る。彼らはリスクを負い、資金を出し、技術を作ったのだから、利益を所有する権利がある。

これは資本主義の普通の考え方である。

しかしAIが単なる商品ではなく、人間の全労働力を置き換えるほどの生産手段になれば、その所有権を一部の人間へ集中させてよいのかという問題が生じる。

蒸気機関やコンピューターも人間の仕事を変えたが、人間の労働を完全には不要にしなかった。新しい産業が生まれ、労働者は別の仕事へ移動できた。

AGIやロボットが、人間に残された新しい仕事まで引き受けるなら、今回は同じことが起きない。

人間が新しい職業へ移るたびに、その職業もAIができる。

その場合、社会の富を分ける根拠を労働だけに置くことはできなくなる。人間は働いた対価としてではなく、人類社会の一員であることを根拠に、生産能力の持分を受け取る。

これがCitizen’s Dividendの最も根本的な思想である。

社会主義に見えるかもしれないが、企業を国有化するわけではない。企業は競争し、利益を求め、許可証を購入する。市場経済は残る。ただし、AIとロボットを増殖させる権利の一部を、国家と国民が共有する。

資本主義の中に、全国民を資本家として参加させる仕組みを作る。

なかなか巧妙である。

実現可能性を分けて考える

Citizen’s Dividendは本当に実現できるのか。

この問いには、「技術的に可能か」「経済的に可能か」「制度的に可能か」「政治的に可能か」を分けて答えた方がよい。

観点 実現に必要な条件 評価
技術 AIが知的労働の大部分を代替し、ロボットが物理労働と自己製造を担う 可能性はあるが、現在は未実証
経済 経済が年数十%から90%規模で成長し、許可証に巨大な価値が生じる 前提が成立すれば計算上は可能
制度 AI・半導体・ロボットを世界規模で追跡し、無許可増殖を防ぐ 極めて大規模な国際管理が必要
財政 許可証を市場価格で販売し、収入の大部分を配当へ回す 法人税より合理的だが、政治的抵抗が大きい
政治 AI企業と政府が富の独占を諦め、国民へ法的な所有権を渡す 最も難しい条件

AIとロボットが世界経済を200倍にするなら、年間100万ドルを配る富そのものは存在し得る。

問題は、その富を国民へ渡す制度を作れるかである。

荒唐無稽なのは、金額ではない

最初に年間100万ドルという数字を見たとき、私はさすがに景気のよい話を作りすぎではないかと思った。

現在の財政感覚で考えれば、当然である。

しかし公式の経済モデルを読んでいくと、少なくとも著者たちが適当に数字を書いたわけではないことは分かる。

AIが労働人口を複製し、ロボットが自己増殖し、世界経済がほぼ毎年倍になる。政府は暴走を防ぐため、その増殖数を制限する。企業は許可証を買い、その代金が国民へ配られる。

この前提をすべて受け入れれば、年間100万ドルはむしろ自然な計算結果になる。

もちろん、前提が巨大すぎる。

AIが人間と同等以上に働ける。ロボットがロボットを作れる。経済が年90%成長する。アメリカと中国が協力する。世界中の半導体とデータセンターを監視できる。企業が許可証制度を受け入れる。政府が収入の75%を国民へ配る。

一つひとつが、年間100万ドルより荒唐無稽に見える。

つまり、Citizen’s Dividendで最も非現実的なのは金額ではない。

そこへ至る政治体制である。

AI時代の問題は、生産ではなく分配になる

人類は長い間、どうすれば十分な食料や商品を生産できるかという問題と戦ってきた。

産業革命以降、生産能力は飛躍的に高まった。それでも人間の労働、資源、エネルギーには限界があり、すべての人へ豊かな生活を提供することはできなかった。

AIとロボットが著者たちの予想どおり進歩すれば、初めて生産力そのものが主要な問題ではなくなる。

食料も、住宅も、医療も、教育も、ほぼ無制限に近い規模で提供できる。

それでも人々が貧しいままである可能性はある。

生産能力を少数の企業が所有し、利用権を少数の政府関係者が管理し、利益を既存株主だけが受け取れば、世界全体が200倍豊かになっても、大多数の人はそこから排除される。

技術的には豊かな社会で、政治的には極端に貧しい社会が成立する。

Citizen’s Dividendは、その未来を避けるための制度である。

だから、これは失業者へ生活費を配る話ではない。

AI時代の資本所有権を、誰に与えるかという話なのだ。

Citizen’s Dividendは実現できるのか

結論として、著者たちが置いた技術的、経済的前提が実現すれば、Citizen’s Dividendの財源は作れる。

AIとロボットが経済を数百倍に拡大するなら、国民一人へ年間100万ドルを配っても、それは全体の富の一部にすぎない。通貨を無意味に増やすのではなく、実物の生産能力に裏付けられた所得なので、必ずしも猛烈なインフレを起こすわけでもない。

したがって「そんな金額を配れるはずがない」という批判だけでは、著者たちの構想への反論にはならない。

本当の問題は、AIとロボットが生み出す富を、政府や企業が国民へ渡すかどうかである。

許可証を無料でAI企業へ配れば、配当はなくなる。政府が収入を軍事費や国家プロジェクトへ使えば、配当は減る。AI企業が規制を嫌って国外へ移れば、制度は崩れる。秘密のデータセンターやロボット工場を防げなければ、許可証の価値も失われる。

年間100万ドルを生み出すAIを作ることより、その100万ドルを全国民へ渡す法律を作る方が難しいかもしれない。

人類はこれまで、生産力が上がれば、その利益はいずれ社会全体へ広がると考えてきた。実際、時間はかかったが、産業革命による豊かさは多くの人々へ届いた。

しかしAI革命では、時間を待てば自然に分配されるとは限らない。

人間の労働が必要なくなれば、富が労働者へ流れる経路そのものが消えるからである。

そこでCitizen’s Dividendは、AIの富を人間社会へ戻す新しい経路を、あらかじめ制度として作ろうとする。

その発想自体は筋が通っている。

年間100万ドルという数字も、前提の中では計算が合っている。

ただし、AI企業、政府、軍、投資家が、世界史上最大の富と権力を国民全体へ譲るという前提だけは、経済モデルでは計算できない。

AIは人間より賢くなるかもしれない。

ロボットは、ほぼすべてのものを作れるようになるかもしれない。

世界経済が200倍になる可能性も、完全には否定できない。

しかし、その富を公平に分けるためには、AIより先に人間の政治が賢くならなくてはならない。

Citizen’s Dividendが最も楽観的なのは、AIの能力についてではない。

人間が富を分けられるという点なのである。

参考資料

  • AI 2040: Plan A
  • AI 2040「Economics of Plan A」
  • AI 2040「Economic Growth Explorer」
  • AI 2040「How Plan A solves our 5 biggest problems」
  • AI 2040「Plan A Assumptions」
  • AI 2040 Footnotes

2026年7月30日 1:47 AM   投稿者: M.A.   カテゴリー: AI, AI安全性/危険性

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