AIと著作権

AIと著作権(1)――「盗作」「学習」「模倣」「仕事の代替」を分けて考える

まあ、この話題には実は踏み込まない方がいいのかも知れないが、現状での考えをまとめる意味でもいいのかなと思い、敢えてシリーズ化してみる。

生成AIと著作権について語ろうとすると、かなりの確率で「AIは人間の作品を盗んでいる」という言葉に行き着く。しかし、この「盗む」という表現の中には、本来なら別々に考えなければならない問題が、まとめて押し込まれている。既存の作品をほとんどそのまま出力すること、作者の絵柄を真似すること、作品を学習データとして利用すること、そしてAIによって人間の仕事が減ることまで、すべてが同じ意味での「盗み」であるかのように語られているのである。

私は自分でも文章を書く。小説を書くこともあれば、それ以外の文章を書くこともある。また、祖父は画家だった。だから、創作物が誰かの時間や技術の積み重ねによって生まれることも、その権利が軽く扱われてはならないことも理解している。自分が書いた文章をそのままコピーされ、少しだけ手を加えて他人の作品として発表されれば、当然ながら不愉快である。それをAIで行ったから許されるとも思わない。既存の絵とほとんど同じ画像を生成し、自分の作品として公開するのであれば、それは従来のトレースや盗作と本質的には変わらない。文章でも、音楽でも、映像でも、プログラムコードでも同じである。

しかし、だからといって、公開された作品から何かを学ぶこと、作風や技法から影響を受けること、さらには同じ仕事をより速く安く行う技術が登場することまで、著作権によって阻止できるとは思わない。この区別をしないまま議論を進めれば、著作権は作品を守るための制度ではなく、特定の職業を新しい技術から守るための制度へと変わってしまう。

AIを使った盗作は、やはり盗作である

まず、最も分かりやすいところから始めたい。生成AIに既存の絵を入力し、人物の服や背景だけを変えた画像を作る。特定の作品とほとんど同じ構図、同じ人物、同じ装飾を再現する。他人の記事をAIに読み込ませ、表現を少し言い換えただけの文章を自分の記事として公開する。こうした行為は、AIが登場する以前から存在していた複製や盗作の延長線上にある。

AIを使ったという事実は、免罪符にはならない。日本の著作権法上も、AIによって生成されたものだから特別な基準が適用されるわけではなく、生成物に既存著作物との類似性と依拠性が認められるかという、従来の著作権侵害と同じ基本的な考え方が用いられる。既存作品の表現上の本質的な特徴が直接感じ取れるほど似ており、その作品に基づいて作られたと判断されれば、生成や公開、販売が著作権侵害となる可能性がある。(bunka.go.jp)

極端な話をすれば、AIに漫画の一場面をそのものずばり描かせ、それを自分の作品として販売するなら、それはかなり分かりやすい問題である。生成AIの内部構造がどうなっているか、人間の学習とAIの学習が同じかどうかといった難しい議論を持ち出さなくてもよい。他人の具体的な表現を再現し、それを利用しているからである。

問題は、そこから先である。

作品を複製することと、作品から学ぶことは同じではない

人間は、何もないところから突然、絵を描けるようになるわけではない。過去の作品を見て、構図を学び、色の使い方を覚え、好きな作家の線を真似しながら、自分の描き方を作っていく。文章を書く人も、音楽を作る人も、プログラムを書く人も同じである。最初から完全に独創的な人など、ほとんど存在しない。

もちろん、AIの学習と人間の学習がまったく同じだと言うつもりはない。人間が生涯に見ることのできる作品数と、企業が機械的に収集できるデータの量は桁が違う。学習の速度も、生成できる量も、そこから生まれる経済的な影響も違う。したがって「人間も学習しているのだからAIも自由だ」という一言だけで、すべてを片付けることはできない。

それでも、具体的な作品を複製することと、多数の作品から一般的な特徴や規則性を学ぶことは分けなければならない。遠近法、陰影の付け方、配色、文章構成、音楽の和声、プログラムの一般的な設計方法まで、誰か一人が独占できるとすれば、新しい創作そのものが成り立たなくなる。

現在の日本の著作権法では、AI学習を含む情報解析について、著作物の内容を鑑賞させることを目的としない利用であれば、著作権法第30条の4が適用される可能性がある。ただし、これは「AI学習なら無条件に何でも許される」という意味ではない。既存作品の創作的表現を出力させる目的で意図的に追加学習を行う場合や、著作権者の利益を不当に害する場合などには、同条が適用されない可能性がある。(bunka.go.jp)

つまり、法律の上でも「学習」と「再現」は完全に同じものとして扱われているわけではない。何のために作品を利用したのか、どのような学習を行ったのか、そして最終的に何が出力されたのかによって、問題の性質は変わってくる。

公開した作品は、どこまで作者のものなのか

ここで誤解してはならないのは、インターネット上に公開した作品が自由に複製してよいものになるわけではないということである。公開されている絵を勝手に商品に印刷して売ってよいわけではないし、公開されている小説を自分の名前で出版してよいわけでもない。公開と権利放棄はまったく違う。

しかし、作品を公表するということは、少なくとも他人の目に触れ、そこから何らかの影響を与えることを避けられなくする行為でもある。絵を見た人が色の使い方を覚えるかもしれない。文章を読んだ人が構成を参考にするかもしれない。音楽を聴いた人が似たようなコード進行を使うかもしれない。作者は作品そのものを複製されない権利を持っているが、その作品を見た人の頭の中に生じた学習や影響まで、完全に支配する権利を持っているわけではない。

AIの場合は、その学習が機械的であり、規模が大きく、さらに商業利用されるため、人間の学習と同じ感覚では受け入れられないという反発が起こる。それは感情として理解できる。自分が長い時間をかけて身につけたものを、機械が大量の作品から短期間で吸収し、その結果として自分の仕事と競合するものを生み出すのであれば、納得できないと感じるのは当然だろう。

だが、不快であることと、著作権によって禁止できることは同じではない。ここを分けなければならない。

作風は著作物なのか

生成AIをめぐる議論では、「自分の絵柄を盗まれた」という表現もよく使われる。実際、特定の作家名を入力すると、その作家を思わせる画像が生成されることがある。特定の作家の作品だけを集め、追加学習を行うことで、かなり近い雰囲気の絵を生成することもできる。

この問題には、簡単に割り切れない部分がある。作家にとって作風は、長い時間をかけて作り上げたものであり、その人の名前や仕事と強く結びついている。それをボタン一つで再現されることに、強い抵抗感を持つのは不思議ではない。

一方で、作風そのものは、原則として著作権が保護する具体的な表現とは区別される。文化庁の整理でも、作風や声などは著作権法上の権利の対象にならない部分として扱われており、作風が共通するだけで直ちに著作権侵害になるわけではない。ただし、単なる雰囲気やアイデアを超えて、元作品の創作的な表現まで共通していれば、侵害となる可能性がある。(bunka.go.jp)

これはAI以前から同じである。ある漫画家の絵を練習し、その影響を受けた絵を描くこと自体が、直ちに違法になるわけではない。しかし、特定のコマをほとんどそのまま描き写せば問題になる。作風と作品は近接しているが、同じものではない。

AIについても、本来はこの線を考えなければならない。「誰々風だから侵害である」と単純化するのでもなく、「作風には著作権がないから何をしてもよい」と開き直るのでもない。どこまでが一般的な特徴で、どこからが具体的な創作的表現の再現なのかという、面倒ではあるが避けられない問題である。

著作権は、仕事そのものを守る制度ではない

そして、AIと著作権を考える際に、最も区別しなければならないのが、著作物を侵害されることと、AIによって仕事を失うことである。

著作権が守っているのは、絵を描くという職業そのものではない。具体的に描かれた絵という成果物を守っている。エンジニアであれば、書かれたコードが著作物となることはあっても、コードを書く能力や、プログラムを作る仕事そのものが著作権で保護されているわけではない。タクシー運転手が持つ運転技術や、翻訳者が持つ翻訳能力、職人が持つ加工技術も、それ自体が著作権によって守られているわけではない。

新しい技術が登場すれば、それまで人間が担っていた仕事の一部が機械に置き換えられる。馬車が自動車に置き換わり、手作業の製図がCADに置き換わり、写植がDTPに置き換わった。馬車そのものが完全に消滅したわけではないし、手描きの製図や活版印刷にも文化的な価値は残っている。しかし、産業の中心ではなくなり、それを仕事にしていた人々の多くが別の仕事へ移らざるを得なかったことも事実である。

同じことが、絵や文章や音楽に起こらないという保証はない。絵を描く人が完全にいなくなるとは思わないし、人間が作った作品への需要も残るだろう。しかし、広告用のイラスト、簡単な説明画像、背景素材、仮デザインなどの仕事は、AIによって大きく減る可能性がある。これはクリエイターにとって深刻な問題であるが、深刻だからといって、そのすべてを著作権侵害と呼ぶことはできない。

もしAIが既存作品を複製せず、具体的な創作的表現も再現せず、それでも人間より速く安く、依頼者が必要とするものを作れるのであれば、そこで起きているのは著作権侵害ではなく、技術による仕事の代替である。残酷な言い方になるが、著作物を作る人間だけが、著作権を使って自分の職業を技術革新から守ることができるという理屈にはならない。

守るべきものと、守れないもの

私は、著作権は守られるべきだと思っている。既存作品をそのまま再現すること、他人の作品を少し変えただけで自作として発表すること、作者を偽ること、海賊版を利用して利益を得ることを擁護するつもりはない。AIによって大量の侵害物を簡単に作れるようになるのであれば、むしろ従来以上に厳しく対応する必要があるだろう。

しかし同時に、著作権が守る範囲を、作風、技法、学習、能力、職業、仕事の需要にまで広げるべきだとも思わない。作品を公表しながら、誰にも見られず、学ばれず、影響を与えず、自分と競合する技術にも利用されないことを求めるのは難しい。少なくとも、それらのすべてを著作権という一つの制度で解決することはできない。

仕事が失われるのであれば、雇用や所得、再教育、利益の分配といった問題として考える必要がある。巨大企業が大量の著作物を利用して利益を得るのであれば、その力の集中や取引の公正さを議論すべきである。学習データの取得方法に問題があるなら、海賊版、不正アクセス、契約違反、透明性の問題として考えるべきである。それらは重要な問題だが、すべてを「著作権侵害」という言葉でまとめれば、かえって何を守ろうとしているのか分からなくなる。

AIと著作権を考えるためには、まず、作品そのものの複製、学習、作風の模倣、そして仕事の代替を分けなければならない。次回からは、このうち最も明確な問題である「AIによる完全な著作権侵害」とは何かを、画像、文章、音楽、コードなどの具体例から考えていきたい。

2026年8月5日 3:25 AM   投稿者: M.A.   カテゴリー: AI, 著作権

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